人の家はたくさん設計してきたけれど、自分の家の設計はもちろん初めてだ。
その作業は、少し気恥ずかしい。
というのは、住宅の設計をすることは、その家族のかたちと向き合うことになるからだ。
僕は、いやおうなしに自らの家族の状況と向かい合い、それが家というかたちになって現前化されてしまう。
今まで、いくつかの個人住宅を設計してきたが、僕は設計プロセスの中で、ミーティングの時間が好きだ。
それはお施主さんに対するインタビューと言ってもいいかもしれない。
「どんな家族ですか、一緒に過ごすタイミングはいつですか、家族の中で何を共有し、何を区別したいですか・・・」
聞くことは山ほどある。そんな会話を重ねるなかで、家族関係がゆっくりと見えてくる。
まるであぶり出される絵のように、次第にプランとなって具体化していく。
それは本当に多種多様で、同じパターンなどあり得ない。同じ家族がないのと同じように。
僕はかつて雑誌の編集の仕事もしていて、そのときたくさんのインタビューを行った。その影響も大きいかもしれないが、家族の話をゆっくり聞いてその物語の延長に設計がある、というふうに捉えている。
こんなとき、僕は翻訳家のような気分になる。
その家族が、さまざまな生活への理想やイメージを言葉で伝えてくれるのを、平面図や断面図、素材など空間に翻訳していくような作業。
さて、馬場家の話に戻ると・・・
僕はまるで自分自身にインタビューし、馬場家をどこかしら客観的な視点で翻訳する・・・、
という状況になる。家族関係がビジュアライズされるということだ。
馬場家には、その歴史の複雑さもあって、はっきりさせないほうが適切なこともたくさんある。
しかし住宅設計は容赦がない。家族の関係がいやおうなしに明らかになる。
僕40歳、嫁39歳、長男18歳(高校三年)、次男3歳(保育園)。まあ、年齢構成からして明らかに何かがおかしい。
自分だけだと自家中毒に陥りそうなので、担当の梶ヶ谷(独身、同棲すら経験なし、たぶん)にもいろいろアイディアを出してもらう。家族に対するリアリティが薄いのが救いだ。梶からは生活感のないプランが出てくる。僕が考えるだけでは、どうしても嫁や息子の顔がちらついて客観性が失われてしまいそうになるので、このくらいのバランスがちょうどいい。
そうして、行き着いた平面図がこれ。
真ん中の四角が僕の部屋。
右上の畳の四角が嫁の部屋。
右下の小さな四角が長男の部屋。
後はトイレの四角と、バスルームの四角。
見事にバラバラのまま、でも同じ屋根の下に存在している。
ぐるっとガラス張りで、四角い個人の部屋の周りは屋内の庭みたいなものだ。
こ、これが馬場家の縮図なのか?
余りにも個が立ちすぎているのではないか?
図像化されようとする家族関係にとまどいながら、
馬場家では家族会議が行われた。