房総の馬場家はできあがってしまったが、一体どういういきさつでこの家に馬場家が至ったのか、その物語は道半ばだ。
また、しばらく時間を遡ってみる。
話は、デキちゃった結婚の末、貧乏のドン底、そして僕がひきこもり状態に陥った場面に戻る。
僕が大学院に通っていた2年間、妻はデパートで働いた。
事実上、嫁に食わせてもらっていたわけだ。この関係は家族として必ずしも健全ではなく、コミュニケーションは常にギクシャクしていたような気がする。九州男児の僕は「食わせてもらっている」という事実それ自体が重荷だった。素直に感謝すればいいのに精神的な余裕がなかった。妻も慣れない仕事でイライラを募らせた。
毎日を過ごすのに必死だったので、この頃の記憶が正直、あまりない。
妻に聞いても同じようなことを言う。人間、つらい記憶は忘却するようにできているのかもしれない。
そんな生活が続き、僕ら夫婦は次第に貧乏に疲れ切る。
最初は、建築学科を出たのだから建築設計を仕事にするのが普通だと思っていて疑わなかった。
自分も建築家と呼ばれるような仕事をするものだと思い込んでいた。しかし実際の社会は甘くないことに、すぐに気がつく。学生から見ていた華やかな世界は、決して華やかではなく、それどころか20代や下手すれば30代まで下積みが続く。安藤忠雄はプロボクサーから独学で建築を学び、今に至っていることが有名。そんなエピソードを聞くと、どんな方法でも努力と才能があれば成り上がれるように見えるが、実際、建築家は比較的裕福な家柄であることが多い。それが現実でもある。
設備事務所でアルバイトをしながら、さまざまな建築設計事務所に足を運ぶなかで気がついて行く。初任給を聞いても僕のアルバイト料より安いではないか。要するに20代の設計事務所は修行なのだ。
「こりゃ、設計事務所はムリだな」
大学院に通いなが早々に悟った。これ以上嫁に迷惑もかけられないし、僕も貧乏に疲れ果てていた。
「あなたが就職したら、私はしばらく堂々と専業主婦をやらせていただく!」
と高らかに宣言していたので、家計は僕の収入だけで支えなければならない。今までかけた苦労から考えれば当然だった。
そこで選択したのが広告代理店。なんせ給料がよさそうだ。しかも失った青春時代が取り返せそうだ(この考えが、後でとんでもない悲劇を巻き起こすのだが)。ゼネコンという選択肢もあったかもしれないが、ここまでバタバタとした波乱の人生を送っていながら、おとなしくゼネコンに就職してしまうのは間違いのような気がした。僕は、いったい何の仕事をしているのかもよくわからない、未知の業界に飛び込んで行った。そこでは、建築の知識を活かしながら、博覧会やモータショーといった空間やイベントの仕事をすることになる。
それから4年間。ボロボロだった家計も少しづつ立ち直り、馬場家は比較的、平穏な日々を過ごす。
しかしそれは、嵐の前の静けさにしか過ぎなかった。