一宮のちょっと北、一松(ひとつまつ)付近を走っていたら、ちょっと風変わりな看板を目にした。
40坪、480万・・・
しかも「売荘」と書いてある。こんな単語は聞いたことがない。
僕はこの強烈な印象の看板に誘われるままに、→の方に進んでいった。
この看板は道の曲がり角にことごとく立っていて、こっちに曲がれ、あっちに曲がれと、事細かに指示が続く。多少「気持ち悪いな・・・」と思いながら、でも好奇心と値段の誘惑には勝てず矢印のいいなりに歩いていった。
5つめくらいの矢印看板の次に、とうとうその物件は現れた。
おうど色の壁に、濃いめのエメラルドグリーンをあしらった軒がアクセントになっている。デザインを学んでしまった者には決してできない配色だ。しかし、土地・建物付きで480万は安い。車の値段だ。
僕は恐る恐るこの物件に近づいていった。
玄関には、
「ご自由にお入り下さい」
と張紙がしてある。まるで僕が迷い込むのを予想していたかのようだ。この玄関の先には一体何が待っているのか。微妙な胸騒ぎを感じながら、僕はギーッと玄関ドアを開いた。
「二階にお上がり下さい」
という張紙とともに、きちんと揃えられたスリッパが置いてある。赤と白のギンガムチェック模様、久しぶりに目にした。なんというホスピタリティ。一階にはトイレと風呂しかなかったので、普通の人間なら何も言われなくても二階に上がるだろうに・・・。そんなことを思いながら、階段を上っていく。
そして目の前にとびこんできたのがこんな部屋。
まるで、今さっきまで人がいたかのようだ。僕が警察だったら「まだ犯人はここを離れてどんなに時間は経っていないな」と判断したであろう。もしやコタツはまだ暖かいのではないかと思い、入ってみたらさすがに冷たかった。窓からの眺めはさかなかのもの。押し入れには布団さえ準備してある。
テーブルには花が刺してある。もちろん枯れずに新鮮な色をしたままだ。よく見るとその隣に置き手紙が・・・。
「冷蔵庫に飲物が冷えております。ご自由にお飲み下さい」
何!そこまでの接遇。僕は部屋を見渡し冷蔵庫を探した。
あった。
少しためらいながら、ゆっくりと冷蔵庫の扉を開ける。
中には、冷えた「おーい、お茶」が並んでいる。
さすがの僕も、ここまで来て違和感を覚えた。見ず知らずの訪問者、しかも勝手に上がり込んで来るやつに対して親切過ぎる。何かある。
同時に、どこか懐かしい感覚に襲われていた。よくよく思い出してみるとそれは、宮沢賢治の『注文の多い料理店』を読んだときに味わったものだ。もしかするとこの後、体じゅうにクリームを塗れだの、耳の後ろを綺麗にしろだの、事細かに指示の張紙がまた発見されるかもしれない。
そもそもこのお茶が怪しい。こいつを飲んだとたんに、すべてが一変するかもしれない。確か『注文の多い料理店』では最後、裸で森の中にたたずむことになったと記憶している。
いつしか僕は言いようもない不安に駆られていた。そして足早にその建物を後にしたのだった。
帰りの車のなかで、あの建物は実在のものだったのか、果たしてあのお茶を飲んでいたらどうなっていたのか。しばらくその空想が頭のなかを駆けめぐった。
それから一ヶ月後。
ひさしぶりに近くを通った時、ふとあの建物に再度立ち寄ってみようと思った。
しかし、あのとき立っていたはずの看板が見あたらない。おかしい。あんなに印象的だった看板、見落とすわけがない。記憶を頼りに角をいくつか曲がり、その建物に到達した。
ん?
今度は人がいる。しかもトンテンカンテン、なにやらデッキのようなものをつくっているではないか。
僕は近寄って声をかけてみた。「この建物、どうしたのですか?」すると、こういう答えが返ってきた。「一ヶ月前くらいに売れたよ。今、庭にデッキをつくってるとこだ」
そこにいたのは近所の大工さんだった。
折しも僕が迷い込んだ時とほぼ同じタイミング。たぶんその買い主は、あの冷蔵庫のお茶を飲んでしまったのだろう。そうしたら手遅れ、この不思議な家を買わずにはいられなくなってしまったわけだ。あのとき、もし僕がお茶を飲んでいたとしたら、今ここでデッキをつくっていたのは僕だったのかもしれない。くわばらくわばら・・・。
ん・・・。
冷静に考えれば、480万、車の値段で家と土地。もしかしたら、お買い得だったのでは。
あのとき、お茶飲んどきゃよかったかな。