大きなスタジオ型ワンルームでの、ちょっとおしゃれな生活に憧れていた。
場所は中目黒、1階はパシフィック・ファニチャー・サービス(通称PFS)という中古家具屋。築30年ちょっとの古めの建物で、ファサードには味のあるタイルが施されている。そして、僕がひきこもることが物理的にできない空間構成。条件は完璧だった。
ちょうど目黒川沿いに洒落たカフェやバーができはじめた頃だったので、僕らは夜中に小学校に上がったばかりの子どもを連れて遊びに繰り出した。近所には友人たちも集まって住むようになり、にわかにこのエリアが華やかになりはじめた。中目黒が変化を始める黎明期だった。
20歳代後半、僕らには小学生の子どもがいたが、周りの友人たちは遊び盛りの独身ばかり。そのペースに巻き込まれ、生活の時間帯やバランスは次第に壊れ始める。僕の携帯電話は、夜中でも平気で鳴っていたし、夜中でも自転車に飛び乗って、渋谷や恵比寿に遊びに出掛けた。それを誘発するかのような空気が、その頃の中目黒には流れていた。
大きめのワンルームには、たくさんの友人たちが遊びに来てくれた。それはそれで楽しかった。僕らは柄にもなく社交的になっていった、いや正確に言うと、そういうフリをしていただけだった。僕も妻もそんな性格ではない。それ自体を見失った。生活に切れ目がなくなり、時間も空間も流動的、過度に自由になっていた。
大きめのワンルームにはプライベートがない。
人間、ひきこもらないまでも、独りになって自分に向き合う時間や空間が必要なのだ。物理的にそれがなくなった。いつのまにか街に流されるように毎日を過ごし始める。
プライベートがなくなった僕らは、いつの間にかイライラが募っていた。そういう生活や姿は子どもにも影響が出る。光太郎も不安定になり学校から注意をされたり、通信簿に「落ち着きがない」と書かれたりもしていた。今の落ち着き払った高校三年生に育った息子からは想像しにくい。
建築のプランは、ジワジワと人を変えていくのだ。頭ではわかっていた。でもそれを自分の問題として捉えてはいなかった。この後、僕はイヤというほど強烈に、プランが家族にもたらす影響を味わうことになる。